ホーム > 事務所案内

事務所案内

税理士を目指した理由

このページを御覧になっている皆様は、それぞれ思うところがあって今の状況にあると思います。
私も父を亡くし、相続は経験ずみです。貧乏家族のため、相続税は発生しませんでしたが・・・・・・。
その貧乏家族の一員であった私がなぜ税理士になったのか、そして今の心境を皆様方にお伝えしたいと思います。

佐藤治夫
第一章 父の失踪、その後

私の実家は八百屋と魚屋を合わせたような店を経営していました。祖父が創業しました。
父は長男のため、二代目社長として働いていました。
しかし、商売がうまくいかず、父は私が17歳の時失踪してしまいました。
この時の出来事が、今の自分自身の原点になっていると感じています。
父の失踪当時、我が家はてんやわんやでした。ただ、父は母にちょくちょく電話で連絡をしてきており、
無事だということは確認できていました。父からの連絡で、居所はわかっていました。
そこで、父の幼なじみの方と私が父を迎えに行くことになりました。
父の居所は横浜でした。友人宅へ転がり込んでいたのです。

当時は関越自動車道ができていない時代です。
横浜に行くためには、まず新潟県から群馬県に行きます。そのためには、三国峠を越えなければなりません。
その日は、春なのに時季はずれの雪にみまわれました。
新潟の湯沢から三国峠を登り始めましたが、途中まで登ったところで、
雪のためタイヤがスリップし前進できなくなりました。
そのため、いったん湯沢へ戻り、ガソリンスタンドでチェーンをつけて再度三国峠越えに挑みました。
車の中ではラジオからキャンディーズの解散コンサートのコマーシャルが聞こえてきたことを覚えています。
ずいぶんと昔のことと思われることでしょうね。

夜を徹して三国峠を越え、群馬県、埼玉県、東京都、そして神奈川県の横浜へと向かいました。
首都高という高速道路が橋のようになっていて、田舎育ちの私には不思議な光景でした。
横浜の父の友人宅へ着き、父に会いました。そして、父を連れ無事に自宅に戻ってきました。

子供の私には、父や父の兄弟たちとの間でどのようなやり取りがあったのか分かりませんでした。
しかし、その後、新しい社長には父の弟である叔父が就いたことで、
もう父は社長ではなくなったのだと理解しました。
そしてこの時、子供ながらに「自分は、もうこの店の跡取りではないのだ。」ということも同時に理解しました。

家がこんな状況で、これから自分はどうなるんだろう。自分の進学について考えました。
何といってもお金がないのです。
当時、高校生活をあと1年残していました。新しく社長となった叔父の配慮で何とか
残り1年間高校へ通わせてもらうことができました。
私は大学進学も考えていましたが、私立大学へ通うことはとてもかなうはずがありません。
急遽地元の国立大学の現役合格を目指しましたが、あえなく撃沈しました。

入学試験の結果を待って、就職活動をしました。職安から新潟市内の卸会社を紹介され、そこに勤めることにしました。
その時に、生まれて初めてアパートを借り、一人暮らしを始めました。

第二章 私の上京

新潟で就職していた当時、大学に進学した高校時代の友人が私のアパートに遊びにきました。
彼らの自由な雰囲気がとても羨ましく感じたものです。
私は就職をし社会人となっていたものの、大学へ行き、学生として学びたいという気持ちがありました。
そのため、文化放送でやっていた旺文社の大学受験ラジオ講座を聴いていました。
「1年間その講座をやり続けて、進学の気持ちに変わりがなければ、大学受験に挑戦してみよう。」とずっと考えながら聴き続けました。そして、1年経っても私の気持ちは変わりませんでした。

よし、やっぱり大学を受験しよう。そうは思っても先立つものがありません。どうすればいいか迷いました。
しかし、何とかやれそうな方法があったのです。実は、ラジオ講座のテキストに新聞奨学生の案内が入っていました。
住み込みで新聞を配達すれば予備校の授業料を出してもらえ、多少なりとも給料ももらえるシステムでした。
慣れない仕事をしながら受験勉強して果たして合格できるだろうかと不安でしたが、
新潟から東京の事務所へ問い合わせをしました。実際にやっていけるかどうかを確認するために、
「体験入店」とうシステムがあることを聞きました。東京の事務所の方から上京しないかとお誘いを受けました。
私は勤務している新潟の会社から有給休暇をいただき、東京の葛飾区へ行きました。

東京へ着いたその日にすぐ仕事にとりかかりました。まずは、先輩に付き添いながら夕刊配りです。
その後夕食をとり、翌日の朝刊に入れる折り込みチラシを一冊にまとめる作業をします。
それから各ご家庭への集金作業をやりその日の仕事は終わりです。
夜の9時くらいに業務完了だったでしょうか。それから、銭湯へ行き、就寝です。
翌日は、朝4時起きです。一冊にまとめたチラシを新聞に挟みこみ、先輩と一緒に配達しました。
一人の受け持ち部数は、約300部です。中学1年生の時小遣い稼ぎのために、
地元で新聞配達をやった経験がありますが、都会は配る部数がずいぶん違うなあと思いました。

東京の事務所の方との話し合いの末、やらせていただくことにしました。
新潟の会社へ戻り、事情を説明したところ快く送り出して頂けました。
夏の賞与支給前の退職でしたが、社長のはからいで賞与もいただくことができました。
東京の勤務先は、板橋区の下赤塚というところでした。
朝刊を配り、朝食をいただいて予備校に通い、午後は3時までに戻り、夕刊の配達、
夜は集金や洗剤を持って営業活動です。
午後10時頃に銭湯に行き、銭湯から戻ると、受験勉強という日々が続きました。

そのような努力の甲斐があって、東京経済大学と専修大学の二校に合格できました。
東京経済大学を選んだのは、専修大学より授業料が安かったからです。
この単純な選び方には自分自身今でも笑ってしまいます。

第三章 バイトに明け暮れた大学生活

大学進学を機に新聞配達は辞めました。
朝刊配達、その後は自由時間、しかし午後は3時までに戻ってまた仕事です。
この間があいてしまう仕事のサイクルがイヤでした。
そうはいっても、授業料と生活費を稼がなければなりません。
新聞配達を辞めてしまったので、アパートの家賃も自分持ちです。
結局、毎日のようにアルバイトに精を出さざるを得ない生活が始まりました。

昼は学校があるため、夕方しかアルバイトはできません。
しかし、学費、家賃、食費が必要だった私にはこの時間帯からでは稼ぎが足りませんでした。
そこで、深夜に8時間働いて、寝ずにそのまま学校へ通うという生活に切り替えました。

しかし、大学へは2年間通った時点でお金が底をつき、次の年度の授業料が払えない状況となっていました。
「これはまずい」と思いました。休学する場合の授業料はどうなるのだろうかと学生手帳に目を凝らすと、
「休学の場合は、授業料を払わなくても良い。」という規程を見つけました。そこで休学を選びました。
夕方5時からのバイトも始め、それが終わって飲食店で深夜のバイトです。
バイトの掛け持ちで、何とか授業料を稼ぎました。
1年の休学の後、復学したものの勉強をしない生活が続いたため、今度は単位不足で留年決定です。
情けないですねえ。現役生と比較すると、入学時点で二浪、おまけに休学と留年で合計四年遅れとなりました。

このような状況でしたので、お恥ずかしい話、就職活動の経験がありません。
実は、バイト生活を通じ、飲食店を経営したいと感じるようになっていました。
しかし、店を経営するには、店舗改装費やお店を借りるための保証金が必要です。
そこで、一緒に経営してくれそうなパートナーを探したのですが、残念ながら見つかりそうにないことがわかりました。
当時、アルバイトで知り合った仲間は遊び友達としては良いのですが、
いざ、共同経営者となるとどうかなあという感じの仲間ばかりでした。
飲食店の経営は難しそうだなと思い始めました。

第四章 税理士という道

1981年4月に入学し、1987年3月に無事卒業しました。
在籍期間は6年になります。大学は卒業しましたが、自分の将来に不安がありました。
このまま飲食業界にいるつもりはなかったのですが、どうしていけばいいのかと。
就職活動もしていない自分に残された道は何だろうと考えました。
その時「何か資格でもとるしかないかな。」という考えが頭に浮かびました。
もともと商売に興味がありましたから、税金に興味はありました。大学では卒業年次に税金の講座を受けました。
母校の卒業生の方で、公認会計士と弁護士の資格を持っている方が講師として授業を担当され、
それを受講していました。その講師の方の言葉が頭に浮かんできました。
「皆さん、税理士になるんだったら大学生のうちに税理士試験の科目をいくつか合格しておいてくださいね」
という言葉です。
当時は、税理士という職業は知らなかったのですが、その時、その言葉を思い出しました。
「そうだ、商売をして節税が上手くできれば金がたまる。税金を制すればいいんだ。」
「よーし、じゃあ、税理士でもやっかあ。」
実は、これが税理士を目指したきっかけなのです。全くもって動機が不純ですね。変な奴ですかね?

税理士試験のためにまずは簿記の勉強を始めました。
そして、1988年に初めて税理士試験を受けました。
1回目の受験結果は、撃沈です。甘く考えていました。
2回目以降の受験は、「今度は落ちたくない。」と思い一念発起しました。
2回目の受験の年である1989年は貯金もできていたので、受験に専念しました。
でも、実際は時間がありすぎてテレビばっかり観ていた気がします。
その後は、仕事をしながら受験勉強に取り組みました。
仕事をしながら受験勉強をしたのにはこんな社会的背景もありました。
2回目の受験の年である1989年、この年は天安門事件や日本国内で悲惨な事件があった年です。
当時私が住んでいたマンションの隣は5歳くらいの女の子がいるご家族でした。
日常の挨拶は交わしていましたが、当時私は隣の方に自分がどう思われているかがすごく気になっていました。
なぜなら、当時幼い子供が犠牲になる事件が続いていたからです。
私は受験生でいわゆるプー太郎ですから、ラフな格好をしている毎日です。
朝きちんと出勤している生活ではありません。
ニュースになっている事件を起こすような人に見られるのではないかと心配でした。
早く仕事に就こう。朝はスーツを着て出かける毎日を過ごそうと思ったのです。

仕事に就こうと思っても、この時の私は簿記の資格も、税理士試験の合格もありませんでした。
そんな私に仕事を与えてくださった事務所がありました。
渋谷で税理士事務所を経営されていた小山一夫先生です。
本当にいろいろと教わりました。何度もゴルフに連れて行って頂きました。嬉しいかぎりです。
その後、いくつかの税理士事務所で経験を積ませて頂き、1997年9月1日に独立開業を果たしました。
一番初めにお世話になった小山先生は、2007年の11月に亡くなりました。小山先生、本当にありがとうございました。

第五章 待望の独立開業

開業の日に父が大腸癌の手術をしました。
その手術の時、肝臓にガン細胞が転移していたことがわかり、1~2ケ月後には再手術とのことでした。
しかし、父には事務所開業資金を融資してもらうために、借金の保証人になってもらう予定でした。
苦肉の策で銀行には、「父が足を骨折したため、すぐには上京できない。」と嘘をつき、
借金の契約を延ばしてもらいました。銀行には父が癌であることは伝えられませんでした。
保証人が癌をわずらっていては、「もう一人保証人を用意してくれないか。」と言われるかもしれないと考えたからです。
銀行との契約は年が明けた1998年1月になりました。父は母と上京してくれました。
母には私の事務所で待機してもらい、父と二人で銀行に出向きました。
無事借り入れの契約書にサインをし終え帰ろうとしたところ、父が銀行員の方に頭を深々と下げてこう言いました。
「息子をよろしくお願いします。」
私は、自分の頭を殴られたようなショックを受けました。
家にお金が無いため、楽しかったはずの大学時代をアルバイトで犠牲にしてきたと思っていました。
正直、父親を恨みました。他の大学生が学生生活を謳歌する姿を見ては、羨ましく感じ、
そうできない状況にいる自分は父親のせいだと感じていたからです。
でも、父のこの一言で私は変わりました。
借金をしなければ、事務所経営を維持していくことは難しいとわかっていました。
借金の保証人ですから、父親以外誰も引き受けてはくれません。
私は、手術後間もない父親に無理を言って保証人を頼むしかありませんでした。
しかし、父は痛い体を引きずって、保証人の欄にサインをするためだけに上京してくれました。
そしてこの言葉を聞き、心の底からありがたいという感謝の気持ちが湧きました。
「絶対に成功しなければ」、そう強く感じた日でした。

第六章 父親の死

父は2006年5月に他界しました。
私の開業から9年目の年でした。他界する前年の夏の墓参りの時、父は、
「来年は墓参りできそうにないなあ。」と言いました。
母は父の弱気なその言葉に「そんな弱気なこと言わないで。」と言いましたが、
私は、年ごとに疲れ果てていく父の姿をみて、そうなるかなと感じていました。
いよいよ、親父ともお別れかなと感じた時です。

父の葬儀では喪主を務めました。
葬儀のとき近所の方から、「治夫さん、あんたはお父さんの自慢の息子だったんだよ。
大学も自分で出て、税理士の事務所を自分で開いて、本当に自慢の息子だったんだよ。」と聞かされました。
私は父がそんなことを話しているなんて知りませんでした。父は寡黙な人でした。
盆暮れに帰省した時でも、一言も事務所のことを聞いてくれたことはなかったのですが、
実は一番応援してくれていた人だったのです。
そのように思いをはせると、「今ある自分は、いったいどれだけの人々のおかげで生きているのだろう」と、
つくづく考えさせられます。

相続でいろいろな思いをされている方へ

皆様にお伝えしたいのは、今日まで自分一人で生きてきたのではないということです。
応援してくれている人が何人もいたはずです。
ですからその人たちへの感謝の気持ちを忘れて欲しくはないのです。
決して「俺ひとりでやり遂げたんだ」と思わずに、いろいろな人の応援で今の自分があると感じて欲しいのです。
そして、「譲る心と感謝の気持ち」で相続を進めて頂きたいと思っています。

皆様、最後までお読み頂きありがとうございました。

プロフィール

私が一番大切にしていること、それは「円満な相続」です

私が相続業務のご依頼を頂いた時に一番大切にしているのは、「円満に相続を終わらせる」ということです。
具体的に言いますと、遺産分割で相続人がもめないようにすることが大切だと思っています。
税理士の私が言うのもなんですが、節税はその次に考えるべき問題だと思います。

円満な相続にするためには、いくつかのポイントがあります。
それは、まず「欲張らない」ということです。財産は親からの授かりものです。
自分が築いた財産ではありません。そうであるならば、「あれば良し、無くても良し。」でいいのではないですか。
しかし、「自分は長男だからほとんど一人でもらうべき。」とおっしゃる方が時々います。
もし、あなたがそう思うなら少し立ち止まって他の相続人の気持ちを考えてみませんか。
あなたのおっしゃることに我慢している人はいませんか?ご家族の気持ちを大切にしてくださいね。

そして、もう一つ。
親の面倒を見てこなかった方には、面倒を見てきた方のご苦労を理解して頂きたいということです。
年老いた親は、忘れっぽくなり、そして、怒りっぽくなります。そのような親との日常の中で、
生活をともにしてきた方のご苦労をわかってあげていただきたいのです。

相続人がお互いに譲り合いの気持ちをもって遺産分割をスムーズに進め、
相続が円満に終えられるようにお手伝いをさせて頂きたいと思っております。

相続アドバイザー協議会に参加しています

2000(平成12)年に「相続アドバイザー協議会」という組織の立ち上げのメンバーに
加えさせていただくことができました。
主催者は、株式会社東京アプレイザルの社長の芳賀則人さんです。
1999年の秋にお声がけいただき、創立のメンバーに加えさせていただきました。
今はNPO法人となり、多くの受講生の方が相続の分野で活躍されています。

http://www.souzoku-adv.com/

私がご支援させていただく方・お断りする方

このような方のご支援をさせていただきたいと熱望しております。

  • 相続は親の生き方を理解することであると考え、親の大切さやありがたさを常に感じ、
    これからも家族や兄弟を大切にしていきたいと思っている方。
  • 全てのものをぴったり1円まで平等に分けることなどできないのであるから、
    自分自身は他の相続人に対して譲る気持ちで相続に取り組みたいとお考えの方
  • 過去はいろいろあったとわかりつつも、親の相続に際しては、
    あえてそれを飲み込んで問題を解決すべきとお考えの方
  • どんなに忙しくても毎年必ずお墓参りをされている方
  • 遺産争いをしていると亡くなった親に申し訳ないから、
    それは絶対にすべきではないとお考えの方

お断りする方

  • 俺は長男だから、全部もらうつもりである。
    だから、佐藤はその意向に沿った仕事をしてくれればいいとお考えの方。
  • 他の兄弟がいくら親の面倒をみたからと言っても、自分にも権利はあるではないか。
    だから、財産は平等に分けるべきだとお考えの方。
  • 親には自分に有利な遺言を書かせたいので協力してくれという方。
  • 自分が今このような状況にあるのは、親や兄弟のせいである。
    今回の相続では、それを取り戻すために権利を主張しまくるぞという方。
  • お墓参りなどほとんどしてこなかったのに、
    相続の時は財産をタダでもらえるからとがんばろうとする方。
  • お金だけもらえればいいから、
    不動産は売ってお金に換えてみんなで分ければいいとお考えの方。

どんな事務所なの?

税理士の私とスタッフ8名の事務所です。
会計事務所は黙々と仕事をするイメージがあると思いますが、
私の事務所は女性スタッフが多いせいか和気あいあいと仕事をしております。
スタッフ同士の連携もよく、お客様に対してスタッフ全員で対応させていただいています。
事務所は新宿の大久保駅が最寄り駅です。大久保駅から徒歩5分程です。
なぜ大久保駅なのかと言いますと、ターミナル駅ですと駅そのものが大きすぎて、電車の乗り降りが大変だからです。
駅から外へ出るのも一苦労ですね。そのため、所在地は新宿区なのですが、あえてターミナル駅ではない大久保駅を
最寄りの駅とする場所を選びました。

どんな税理士なの?

なかなか自分で自分のことを説明するのは難しいですね。
ということで、事務所のスタッフの意見もまじえてお伝えすることにします。

血液型はB型です。(世の中では変わり者の部類だそうでガッカリですが)
でも、性格はポジティブですよ。
ゴルフとお酒が好きです。(レッスンにも頻繁に通っています。もちろん、ゴルフの方ですよ。)
あと、歌を歌うことが好きです。(カラオケではEXILEを原曲で歌っています。声も出ます。)
そして、トイレ掃除も好き(?)です。これもスタッフと順番でちゃんとやっています。
また、新潟出身のせいか「お米の炊き方にはうるさい」とスタッフ言われています。

他にもいろいろありますが、なかなか思いつかないのでこのくらいにします。
実際にお会いした時にお話しさせて下さいね。

読んで頂いて本当にありがとうございます。ここまでお付き合いいだだき
とてもうれしく感じております。

事務所概要

名称 佐藤治夫税理士事務所
所在地 〒169-0074 東京都新宿区北新宿1-4-7 ホクシンビル4階
最寄駅 JR総武線 大久保駅南口徒歩5分
JR山手線 新大久保駅徒歩8分
連絡先 TEL:03-3363-7806
FAX:03-3363-7807
フリーダイヤル:0120-279-868
設立日 1997(平成9)年9月1日
所属組織 東京税理士会新宿支部 登録番号 第82980号
NPO法人相続アドバイザー協議会

アクセス

メールでのお問い合せはこちらから 24時間受け付け